2019年6月8日(土)~9月8日(日)
ふと目についたのに、次の瞬間には関心が薄れ、残像のように記憶に残った風景。あるいは、理解しようにも難しく、未整理のまま脳の中に仮置きした出来事。私たちは、自分の見聞きしたものに対し、日記をつけたり、思い出話を披露したり、ネット上に呟いたり、言語化して整理していきますが、そのすべてを言語化することなど到底できず、目にした世界の多くを未消化のまま日々を過ごしています。だからきっと私たちの心の底は、言語化の網をするりと抜けて、名前を与えられなかった風景や出来事でいっぱいになっているはずです。
本展では、そのような未消化のままに記憶に沈殿してしまいそうな風景や出来事を、絵画や写真、映像などに留め、表現に昇華させる5名と1組の作者を紹介します。
タイトル「忘れようとしても思い出せない」は漫才コンビ「唄子・啓助」の鳳啓助による『君の事は忘れようにも思いだせない』というギャグにちなむフレーズです。このギャグは記憶の性質をユニークに言い表しているのではないでしょうか。本展を通し、明確に言語化されずとも、確かに感得された情景に思いを馳せていただきたいと思います。
会場 | ボーダレス・アートミュージアムNO-MA |
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開館時間 | 11:00~17:00 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日) |
観覧料 | 一般300円(250円)、高大生250円(200円) ※中学生以下無料、障害のある方と付添者1名無料 ※( )内は20名以上の団体料金 |
20世紀初頭のアマチュア芸術写真や、鉄道写真、時には遺影など、様々な視覚文化について研究を行う佐藤守弘を迎えた講演会。心の中にきざまれた記憶とモノやメディアに遺された記録の不思議な関係を探ります。
日時:6月15日(土)13:30~15:00
会場:奥村家住宅(滋賀県近江八幡市永原町上8)
講師:佐藤守弘(視覚文化研究者)
定員:20名(要予約)
参加費:観覧料 ※既に展覧会をご覧の方はチケットの半券をご提示ください。
出展作家の田中秀介を迎え、絵を描くワークショップを行います。参加者たちの顔のパーツ一つ一つを組み合わせて、誰かの誰かを組み合わせた人物画を描きます。子どもから大人まで参加できるイベントです。
日時:8月3日(土)13:30~15:30
会場:奥村家住宅
講師:田中秀介
定員:20名(要予約)
参加費:観覧料 ※既に展覧会をご覧の方はチケットの半券をご提示ください。
本展出展者の鬼海と交流のある作家の田口ランディを迎え、他者から発せられる強い視線を感じる鬼海の写真作品を起点に、本展についてのトークを展開します。
日時:8月24日(土)13:30~15:00
会場:酒游舘(滋賀県近江八幡市仲屋町中6)
講師:田口ランディ(作家)
定員:60名(要予約)
参加費:観覧料 ※既に展覧会をご覧の方はチケットの半券をご提示ください。
本展でも紹介する「8ミリフィルム発掘プロジェクト」の上映会と、トークを行います。滋賀県で撮影された8ミリフィルムのプライベートムービーを解説とともに見ながら、地域のかつての日々の情景を映し出します。
日時:8月31日(土)14:00~16:00
会場:旧伴家住宅(滋賀県近江八幡市新町3丁目15)
出演:おうみ映像ラボ
定員:30名(要予約)
参加費:観覧料 ※既に展覧会をご覧の方はチケットの半券をご提示ください。
ボーダレス・アートミュージアムNO-MA
Tel/Fax 0748-36-5018
E-mail no-ma[ at ]lake.ocn.ne.jp ※[ at ]を@に変換してください。
本展では、おうみ映像ラボ が展開する「8ミリフィルム発掘プロジェクト」で見つけられた 個人および公共施設蔵などで発見されたフィルムを展示している。
映像からは、もう見ることが出来ないような過去の街の姿、伝統的なお祭り、家族の営みの様子を見ることができる。おうみ映 像ラボによって発掘された映像は、思い出話のように誰かの語りを通して想起させるのではなく、過去に確実に存在したシーンを再生する。これらの映像を前に、知らない誰かの、過ぎ去った日々の情景に、私たちは出会うのである。
岡部は、一枚の紙に、何かを描いては、修正液や白い紙を張り付けて消し、その上にまた描くという創作を繰り返す。作品からは、絵と彼自身の記憶とのつながりを感じさせる。しかし、その着想源や表現手段は非常に謎めいており、読解することは難しい。また岡部には、絵の完成という概念はなく、同じ紙に2年以上加筆を繰り返すこともある。記憶をベースに、一枚の紙に何度も加筆を繰り返している彼にとって、絵は自身の過去にアクセスし、思い出を反芻するための手段なのかもしれない。
鬼海は、1973 年から浅草の市井の人々の肖像を写している。「浅草ポートレート」のタイトルで展開してきた。人通りの中から、気になった人物に声をかけては浅草寺の境内の無地の壁に立ってもらいシャッターを切っている。数時間佇んでいても、日に1人か2人。誰も撮れない空振りの日も多いという。ポートレートには簡潔なキャプションが添えられている。それは、肖像の断片的なプロフィールや会話の断片を示唆しているが、その人 物の来 歴などといった詳細な情報はない。肖像は何も語らない代わりに、かえって写真を観る人に素性の知らない人物たちへの想像を掻き立てる。
齋藤勝利は山形県に生まれた。生まれつきの聾唖であり、聾学校に入学した当初は言葉を扱えなかったため、担当を受け持った美術教師が事物や出来事を絵に描いて伝える意思疎通の方法を試みた。その中で、齋藤は描画する力を身に着けていった。
スケッチブックを一枚一枚めくっていくと、山の稜線や道路に平行する電線が頁をまたいで続いており、一冊を通して壮大な風景の連続画が成立している。これらは、齋藤が車窓から眺めた景色を記憶し、持ち帰った後で、描いたものである。描写力に加え、観察力と記憶力があったからこそ、こぼれ落ちていく映像を、生き生きと再現することができたのである。
田中が描くのは、彼が実際に目の当たりにしたシーン(日常場面)だ。骨董市で品定めする外国人、薄暗い民家など、田中は目に留まった表象を独自に視点の下に切り取って、絵画化を試みる。このように、田中は目にしたシーンの再現を行うが、写真のように事象を客観的に表すのではなく、むしろ目にした瞬間の心情も含め、主観的に感じ取ったイメージを追いかけるかのように対象を描いていく。絵からは、日常に溢れる「何気ない」事象が、異彩を放つ「何者か」として立ち現れてくる。